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山本山(324.4m))〜賤ヶ岳(421.1m)縦走
平成23年4月10日(日)晴れ
滋賀県長浜市の山本山から賤ヶ岳めでの縦走を試みた。家を5時45分に出発し、一般道で長浜市へ向かう。そして、河毛駅から旧湖北町役場をとおり、速水北交差点で国道8号から分岐して西進する。山本交差点で右折して、朝日小学校の看板のT字路で左折すると右手に朝日山神社と朝日小学校がある。朝日山神社の鳥居の方へ進むと手前の左側に朝日小学校の駐車場がある。休みの日ならここに駐車しても良いが、朝日山神社のすぐ前にも駐車できる場所がある。朝日山神社の左側、朝日小学校の後が山本山の登山口である。大きな看板があるのですぐ分かる。
早速、登山準備をして出発した。
7:29 登山口(朝日山神社、朝日小学校駐車場)
まずは、コンクリートの階段を登っていく。常楽寺への参道のようだ。
7:32 常性寺 着
この先に「山本山登山道」の立て札があり、登山道もよく整備されていた。すぐに展望台のような場所があり、山本山千本桜植栽記念という柱がある場所にでた。
7:34 山本山千本桜植栽記念柱 着
さらに登っていくと、すぐに忠魂碑があり、その前にはベンチがおいてあり、好展望地になっていた。そばには、道標があった。
7:36 忠魂碑の展望台 着
「西阿閉集落0.8km」「山本集落0.2km」
ここからも広い遊歩道のような登山道が続く。
7:43 「山頂まであと500m」の看板の場所を通過した。
7:44 「山頂まであと15分」の看板の場所に出た。ここにもベンチが設置してある。
7:46 「念性岩へ通じる道」の分岐を通過した。
7:52〜7:54 山本山城遺跡で休憩した。山本山城の説明は以下のとおり。
「平安時代末期山本源氏山本義経の本拠であったと伝えられている。戦国時代、浅井氏らの支城となり、阿閉氏が入り本拠とした。元亀3年7月20日小谷城攻め20日小谷城攻めに際し、織田信長の命を受けた木下秀吉によって攻撃を受けた。」
7:56〜8:08 二の丸跡で小休止。
「朝日山神社0.8km」「賎ヶ岳(展望台)7.3km」
「奥山の地蔵4.9km」「若宮山古墳0.5km」
「津里バスのりば0.8km」
という看板がある。ここはもう山頂広場である。以下のような説明板があった。
「山本山 標高324.9m この山の別名は朝日山、田中山、白山といい、またその優美な形が琵琶湖のどこから見てもすぐにわかることから見当山とも言います。この山が陸上を湖上を見渡す重要な位置にあることから、平安時代から戦国時代にかけて山城が気づかれ土塁と堀切の跡に古城の姿をとどめることができます。」
「この歩道は、志賀町の近江舞子を起点にして琵琶湖畔を北まわりで近江八幡市の近江八幡国民休暇村までを結ぶ約140kmの長距離歩道です。琵琶湖を中心にそれぞれの地域の恵まれた自然や価値ある文化遺産などを四季を通じて親しむことができます。滋賀県内には、近江の湖の辺の道の他にいくつかの自然歩道があります。」
この看板の地図には、熊野へのエスケープルートと有漏神社へのエスケープルートが描かれていた。
すぐ先に「山本山本丸跡」という立て札がり、それには以下のように記されている。
「高倉宮以仁王の令旨を受けた山本源氏山本義定・義経父子の旗上げした陣跡。治承4年(1180)12月16日平家の平知盛・資盛の大軍により全山火の海と化すという。本丸は高さ2m程の土塁で囲まれている。西側には帯曲輪がありその下に竪堀、北側には空堀を設けている。」
さて、ここからは快適な稜線歩きとなる。
8:09 「一番馬場跡」、「二番馬場跡」を通過する。
東側(右手)は長浜市の市街地、平野、小谷山などが見え、西側(左手)には琵琶湖が樹林の間に見え隠れする。実によく整備された歩きやすい道だ。地形図のとおり、やがて下り坂になる。
8:12 「賎ヶ岳リフトのりば6.7km」「奥山の地蔵4.5km」
「山本山頂上0.2km」の道標のある場所を通過する。
8:14 「山本山0.3km」「熊野1.0km」の道標を通過。
8:18 「古保利山古墳群F−1号墳」の看板を通過する。
8:23 「熊野区ふれあいの森」の看板の場所を通過する。この付近は、右山のトラバース道である。
8:25 「古保利古墳群E14・15号墳」を通過。
8:27 NHKアンテナと「古保利古墳群E−9号墳」をつうかすると、すぐにまたアンテナが見えてくる。
8:29 NHKアンテナと「古保利古墳群E−5号墳」を通過する。
8:30 「賎ヶ岳(展望台)6km」「山本山1.2km」
「奥の地蔵3.5km」の道標を過ぎると、やがて十字路が見えてきた。
8:33〜8:38 エスケープルートの交差点だ。
「熊野1.2km」「山本山2.0km」「賎ヶ岳5.2km」
「賎ヶ岳(展望台)5.2km」「山本山1.3km」
「片山集落0.5km」「熊野集落0.8km」
「西野(木戸下り口)1.3km」「海老越し下り口2.2km」
「賎ヶ岳5.2km」「片山0.8km」、
というように看板が賑やかにある。かつては、この下にある「片山トンネル」はなく、小学生はこの峠を越えて通学したという。片山集落から古保利小学校までは1.3kmあると推測される。小学生にとっては辛い峠道ではなかったか。さらにここから登っていくと、
8:40 「古保利古墳群D−41・42号墳」 着
8:47 「熊野・山本山方面」、「西野・賤ヶ岳方面」の看板のある場所を通過する。
8:49 「古保利古墳群D−1・2号墳」を通過。
8:51 「賎ヶ岳リフトのりば4.7km」「奥山の地蔵2.6km」
「山本山2.3km」「片山集落1.4km」の道標の場所を通る。
8:52 「ほりぬき公園 東側」「西野水道 この下」という看板がある。ここが西野水道の上部ということか。
8:54 「古保利古墳群C−16号墳」を通過。
8:57 「アカマツ林」の看板を通過して、どんどん下っていく。
8:59〜9:03 「山本山2.8km」「賤ヶ岳4.7km」「余呉湖9.2km」
「西野木戸港、西野水道0.6km」
「山本山2.7km」「賤ヶ岳(展望台)4.6km」
「片山集落1.8km」「奥山の地蔵2.1km」
「琵琶湖(木戸港跡)0.4km」
「西野水道(近江青の洞門)0.7km」「西野集落0.8km」
「国指定史跡 古保利古墳群」の大きな看板
という看板の場所に下り立った。ここもエスケープルートの交差点だ。このあと「奥山の地蔵」の道標がなくなったが、奥山の地蔵は片山集落の先にあるのかな。縦走路の近くにあるのなら立ち寄ってみたいと思ったが、とうとう分からずじまいであった。
9:07 「古保利古墳群B―6号墳」を通過。
9:12 「山本山3.3km」「賤ヶ岳(展望台)3.9km」
「西野集落1.1km」「阿曽津千軒集落跡1.2km」
「海老越し」
「賤ヶ岳4.0km」「山本山3.5km」「余呉湖8.5km」
「西野水道1.3km」
なんとここには、立派な林道が上がってきていた。エスケープルートになりうる。この当たりが山本山と賤ヶ岳の中間点であろう。
9:23 「賤ヶ岳(展望台)3.2km」「山本山2.7km」
「古保利古墳群A―2号墳(西野山古墳)」
ここから急な登り坂にさしかかる。
9:25 「阿曽津千軒」
「賤ヶ岳3.5km」「山本山4.0km」「余呉湖8.0km」
「西野水道1.8km」
ここから急な登り坂になる。
9:32 急な坂を登り終えて、ちょっとしたピークに出る。
「山本山4.3km」「賤ヶ岳3.2km」「余呉湖7.7km」
「西野水道2.1km」
「山本山4.1km」「片山集落3.2km」
「賤ヶ岳リフトのりば2.9km」
という道標がある。ここから平らっぽい道を進んでいく。
9:34 「山本山4.3km」「余呉湖7.7km」「賎ヶ岳3.2km」
「西野水道2.3km」
という道標を通過して、
9:38 ピークに出る。
「山本山4.0km」「賎ヶ岳(展望台)3.0km」
「磯野山城跡(片道20分)」
という道標と看板がある。磯野山城に興味を引かれたが、片道20分の表示を見てあきらめた。ここから少しだけ下ると、
9:39 「有漏神社」
「山本山4.5km」「賎ヶ岳3.0km」「西野水道2.3km」
「余呉湖7.5km」
「有漏神社1.2km」「静ヶ岳(展望台)2.8km」
「山本山4.5km」「余呉湖3.9km」
という道標があるが、なぜか、有漏神社の方は柵があり通行止めとなっている。奥山の地蔵は有漏神社への途中にあるようだ。ここからは登りとなる。やがて緩やかな坂になってくる。
9:44 「山本山まで4.5km」の看板を通過する。ここから緩やかに下っていく。
9:47 「赤尾」
「賎ヶ岳2.6km」「余呉湖7.1km」「山本山4.9km」
「西野水道2.7km」
ここから登りに転じる。
9:53 ピークのような場所になる。平坦地のような道を進んで行く。
9:56 「賎ヶ岳リフトのりば1.4km」「余呉湖2.2km」
「山本山5.1km」
という道標を通過する。
10:02〜10:04 4等三角点:点名「丸山(西山)」(360.4m)が登山道の真ん中にある。ここからは下っていく。
10:11 「賎ヶ岳1.2km」「余呉湖5.7km」「山本山6.3km」
「西野水道4.1km」
「賎ヶ岳(展望台)1.4km」「山本山5.9km」
「余呉湖1.9km」
という道標を通過して、下っていく。
10:15 緑色の鉄塔が連続して2つある場所
ここからも下っていく。
10:17 「山梨子1.1km」「山本山6.6km」「西野水道4.4km」
「賎ヶ岳0.9km」「余呉湖5.4km」「山梨子1.1km」
「
「賎ヶ岳(展望台)1.1km」
「自然観察コース」の看板がある。
ここが最後のエスケープルートである。山梨子方面へ行くと、賤ヶ岳トンネルの西側出口へ出るものと思われる。(下山してから賤ヶ岳トンネルの西側出口を確認。)さて、ここから、急な登りとなる。
10:29 ピーク(標高368m)に達する。
10:30 「大音ふれあいの森」の看板がある。目の前にはリフトの山頂乗り場である。
10:30〜10:36 リフトの山頂のりば
「賎ヶ岳0.3km」「西野水道5.0km」「山本山7.2km」
「余呉湖4.8km」
「余呉湖・賎ヶ岳・山本山歩道」の大きな看板がある。看板には次のように書いてあります。
「この歩道は、余呉湖、賎ヶ岳、山本山を結ぶ約12キロの道です。美しい自然や貴重な文化財を火災から守りましょう。野鳥や昆虫などはそっと観察しましょう。樹木や草花を大切にしましょう。ゴミは持ち帰りましょう。」
「大音・木之本1.5km」「山本山7.2km」「賎ヶ岳0.3km」
「余呉湖4.8km」「西野水道5.0km」
の道標もある。
10:42〜11:27 賤ヶ岳山頂に出る。
「リフトのりば300m」「山本山7.5km」「西野水道5.3km」の看板がある。リフトで登ってきた観光客が大勢いる。軽装の観光客の中では、重装備のこちらの方が場に不似合いな感じである。しかし、ぽかぽかと暖かく、ゆっくりと昼食休憩をとった。まだまだ、これから往路を戻らねばならないので、重い腰をあげたのであった。
11:30 リフトの山頂乗り場を通過した。
「賎ヶ岳0.3km」「西野水道5.0km」「山本山7.2km」
「余呉湖4.8km」
「余呉湖・賎ヶ岳・山本山歩道」の大きな看板がある。
ここからはじめは緩やかに下って、その後、急な下りとなる。
11:37 「山梨子1.1km」「山本山6.6km」「西野水道4.4km」
「賎ヶ岳0.9km」「余呉湖5.4km」「山梨子1.1km」
「
「賎ヶ岳(展望台)1.1km」
「自然観察コース」の看板がある。
ここから登りとなる。
11:39 緑色の2つの鉄塔を通過して、登りとなる。
11:43 「賎ヶ岳1.2km」「余呉湖5.7km」「山本山6.3km」
「西野水道4.1km」
「賎ヶ岳(展望台)1.4km」「山本山5.9km」
「余呉湖1.9km」
ここからも登り。
11:52 点名:丸山(西山)(4等三角点、標高360.4m)に出る。この付近は平らであるが、やがて下りとなる。
11:56 「賎ヶ岳リフトのりば1.4km」「余呉湖2.2km」
「山本山5.1km」
緩やかに下っていく。
11:59 ピークのような場所をとおり、さらに下っていく。
12:02 「赤尾」
「賎ヶ岳2.6km」「余呉湖7.1km」「山本山4.9km」
「西野水道2.7km」
ここから登りとなる。
12:06 「山本山まで4.5km」の看板のある場所で、この付近は平らであるが、
緩やかに登っていく。そして下りになる。
12:09 「有漏神社」
「山本山4.5km」「賎ヶ岳3.0km」「西野水道2.3km」
「余呉湖7.5km」
「有漏神社1.2km」「静ヶ岳(展望台)2.8km」
「山本山4.5km」「余呉湖3.9km」
しかし、有漏神社の方は柵があり通行止めとなっている。
ここから登りに転じる。
12:10 ピークに出て、右へ曲がり、ここから下りになる。
「山本山4.0km」「賎ヶ岳(展望台)3.0km」
「磯野山城跡(片道20分)」
12:12 「山本山4.3km」「余呉湖7.7km」「賎ヶ岳3.2km」
「西野水道2.3km」
今度は登りに転じる。
12:13 ちょっとしたピークに出て、ここから下りになる。
「山本山4.3km」「賤ヶ岳3.2km」「余呉湖7.7km」
「西野水道2.1km」
「山本山4.1km」「片山集落3.2km」
「賤ヶ岳リフトのりば2.9km」
12:17 まだまだ下りが続く。
「阿曽津千軒」
「賤ヶ岳3.5km」「山本山4.0km」「余呉湖8.0km」
「西野水道1.8km」
12:17 「賤ヶ岳(展望台)3.2km」「山本山2.7km」
「古保利古墳群A―2号墳(西野山古墳)」
しばらくは、平らであるが、その後ジグザグに下っていく。
12:23 「山本山3.3km」「賤ヶ岳(展望台)3.9km」
「西野集落1.1km」「阿曽津千軒集落跡1.2km」
「海老越し」
「賤ヶ岳4.0km」「山本山3.5km」「余呉湖8.5km」
「西野水道1.3km」
ここから登りになる。
12:29 「古保利古墳群B―6号墳」
この付近は平らであるが、やがて下りとなる。
12:32 「山本山2.8km」「賎ヶ岳4.7km」「余呉湖9.2km」
「西野木戸港、西野水道0.6km」
「山本山2.7km」「賎ヶ岳(展望台)4.6km」
「片山集落1.8km」「奥山の地蔵2.1km」
「琵琶湖(木戸港跡)0.4km」
「西野水道(近江青の洞門)0.7km」「西野集落0.8km」
「国指定史跡 古保利古墳群」の大きな看板
鞍部となっており、ここから登りとなる。
12:36 「アカマツ林」の看板に出る。ここから左山でのトラバース道となる。
12:38 「古保利古墳群C−16号墳」
ここからも左山でのトラバース道が続く。
12:40 平らな場所に出る。
「ほりぬき公園 東側」「西野水道 この下」
12:40 平らな左山のトラバースが続く。
「賎ヶ岳リフトのりば4.7km」「奥山の地蔵2.6km」
「山本山2.3km」「片山集落1.4km」
12:42 「古保利古墳群D−1・2号墳」
登りとなる。
12:44 登りとなり、左山トラバースで進んで行く。
「熊野・山本山方面」、「西野・賎ヶ岳方面」の看板
12:51 左山のトラバースが続く。
「古保利古墳群D−41・42号墳」
12:53 「熊野1.2km」「山本山2.0km」「賎ヶ岳5.2km」
「賎ヶ岳(展望台)5.2km」「山本山1.3km」
「片山集落0.5km」
「熊野集落0.8km」
「西野(木戸下り口)1.3km」「海老越し下り口2.2km」
「賎ヶ岳5.2km」「片山0.8km」
緩やかな登り坂となる。
12:56 「賎ヶ岳(展望台)6km」「山本山1.2km」「奥の地蔵3.5km」
緩やかな登り道が続く。
12:57 NHKアンテナと「古保利古墳群E−5号墳」
12:59 NHKアンテナと「古保利古墳群E−9号墳」
平らな道になる。
13:00 左山のトラバース道となる。
「古保利古墳群E14・15号墳」
13:02 「熊野ふれあいの森」の看板のある場所
ここから平らになり、そして下りとなる。
13:06 「古保利山古墳群F−1号墳」
道は登りへ
13:08 「山本山0.3km」「熊野1.0km」
登りが続く。
13:14 平らになる。
「賎ヶ岳リフトのりば6.7km」「奥山の地蔵4.5km」
「山本山頂上0.2km」の道標
13:17 「一番馬場跡」「二番馬場跡」
13:18〜13:29 山本山三角点(標高324.4m)に到着。往路では確認しなかった三角点を確認した。山本山城本丸跡の立て札の脇の土塁の上にある。
13:34 念性岩へ通じる道分岐
13:35 「山頂まであと15分」という看板のある地点
13:35 「山頂まであと500m」の看板の場所
13:38 忠魂碑の展望台
「西阿閉集落0.8km」「山本集落0.2km」
13:39 「山本山千本桜植栽開始記念」の木柱
13:40 常楽寺
13:42 登山口(朝日山神社、朝日小学校の駐車場)
往復16kmに及ぶ縦走の完了であった。すごい満足感がこみ上げてきた。しかし、この後、例会に備えてエスケープルートの登山口(下山口)を確認するため、縦走路の山裾を賤ヶ岳まで車を走らせた。
そして、帰路は渋滞を避けるため、国道303号で八草トンネルを通って、揖斐川町から戻ってきた。帰宅は16時45分であった。
山本山城
「平安時代末期山本源氏山本義経の本拠であったと伝えられている。戦国時代、浅井氏らの支城となり、阿閉氏が入り本拠とした。元亀3年7月20日小谷城攻め20日小谷城攻めに際し、織田信長の命を受けた木下秀吉によって攻撃を受けた。」
山本山
「山本山 標高324.9m この山の別名は朝日山、田中山、白山といい、またその優美な形が琵琶湖のどこから見てもすぐにわかることから見当山とも言います。この山が陸上を湖上を見渡す重要な位置にあることから、平安時代から戦国時代にかけて山城が気づかれ土塁と堀切の跡に古城の姿をとどめることができます。」
近江の湖の辺の道
「この歩道は、志賀町の近江舞子を起点にして琵琶湖畔を北まわりで近江八幡市の近江八幡国民休暇村までを結ぶ約140kmの長距離歩道です。琵琶湖を中心にそれぞれの地域の恵まれた自然や価値ある文化遺産などを四季を通じて親しむことができます。滋賀県内には、近江の湖の辺の道の他にいくつかの自然歩道があります。」
「山本山本丸跡」
「高倉宮以仁王の令旨を受けた山本源氏山本義定・義経父子の旗上げした陣跡。治承4年(1180)12月16日平家の平知盛・資盛の大軍により全山火の海と化すという。本丸は高さ2m程の土塁で囲まれている。西側には帯曲輪がありその下に竪堀、北側には空堀を設けている。」
「余呉湖・賎ヶ岳・山本山歩道」
「この歩道は、余呉湖、賎ヶ岳、山本山を結ぶ約12キロの道です。美しい自然や貴重な文化財を火災から守りましょう。野鳥や昆虫などはそっと観察しましょう。樹木や草花を大切にしましょう。ゴミは持ち帰りましょう。」
西野水道
たびかさなる余呉川の洪水に苦しめられる西野地域を救うため、充満寺の住職西野恵荘が人々とともに力を合わせて、五年の歳月をかけて、琵琶湖までの水道を切り開いたもの。弘化2年(1845年)に完成したこの西野水道は単に水利事業としてのみならず、江戸後期の民衆史上特筆すべきことで、全国的にも貴重な史跡と言えるとか。
古保利古墳群
高月町のびわ湖岸、西野山から山本山の尾根上約3kmにわたり分布する古墳
群で、古墳時代のものと推定され、約140基が確認されている。
これらは、琵琶湖の湖上交通を掌握していた豪族の墓と考えられ、いろんな
形の古墳がたくさん集まっていることや造られた時代が長期にわたっているこ
となどから、全国でも屈指の古墳群として注目されているものらしい。
古保利古墳群は、滋賀県北部、琵琶湖北端の塩津湾東岸に面した丘陵上に立地する。
昭和40年代に滋賀県教育委員会が行った分布調査により、滋賀県屈指の大規模な古墳群であることが判明し、県史跡に指定された。その後、高月町教育委員会が、昭和58年度から平成6年度に測量を主とした分布調査を行い、平成10から12年度に一部古墳の発掘調査を行った。その結果、古墳時代の初期から後期・終末期に至る、132基の古墳からなる大規模な古墳群であり、古墳の墳丘も良好な状況で保存されていることが判明した。
古墳は琵琶湖との比高100m以上の丘陵尾根上、標高200から240mの稜線上に南北約3kmにわたって分布する。前方後円墳8基、前方後方墳8基、円墳79基、方墳37基からなる。立地や分布状況からみて6つの支群に分けられ、それぞれ1基以上の前方後円墳ないしは前方後方墳が含まれる。古墳の規模は、前方後円墳では西野山古墳が90m、寺ヶ浦古墳が53.5m、ほかは22.5から40m、前方後方墳では、小松古墳が60m、ほかは15から39mである。円墳の直径、方墳の一辺はほぼ30mを最大とし、10から20m前後のものが多い。前方後円墳・前方後方墳と規模の大きい円墳・方墳は、古墳時代の初期から前期末ないしは中期前葉ころを中心とするものと考えられる。前方後方墳の小松古墳は、後方部の墳頂部から出土した二重口縁の壺や高杯などの土器からみて初期の古墳と考えられる。これら前期を中心とした古墳の内部主体は、竪穴式石室や粘土郭などは確認されておらず木棺直葬と推定される。埴輪はまったく認められないが、発掘された前方後円墳には葺石が確認されている。また、直径10m内外の小規模の古墳は、横穴式石室や横口式石郭などを内部主体とする6世紀から7世紀に造営された後期及び終末期のものが主となり、一部は群集墳を形成する。
この古墳群は、琵琶湖にじかに面しており、琵琶湖からしか望めない古墳もあることから、琵琶湖からの眺望を意識したことがうかがえる。琵琶湖は近江の水上交通の大動脈であり、湖北地域は畿内地方・北陸地方・東海地方・山陰地方から若狭地方の各地を結ぶ交通路上にあたることからも、古墳の被葬者は琵琶湖の水上交通に関与した集団と考えられる。また、古墳群は古墳時代の初期から終末期まで長期にわたって継続した大規模なもので、古墳時代の琵琶湖の水上交通のあり方とそれを担った集団の変遷や構成を知る上で重要である。古墳群全体は琵琶湖の景観とともに良好に保存されており、史跡に指定し保護を図ろうとするものである。